キリスト教に伝わる言い伝えでは、神はこれまでに多くの天使を生み出している。
一方で、悪魔とはかつて天使であった者が堕天することで誕生した存在として描かれることが多く、言い換えれば悪魔も神によって生み出された存在である。
それらは天使として生み出されたという共通点があるのだが、例外的に最初から悪魔として生み出された者達が存在する。
リヴァイアサンとベヒーモスだ。
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リヴァイアサンは海に住むとても巨大な生物で、硬い鱗に体中を包まれ、あらゆる武器が効かないとされている。本来は雄雌2体のリヴァイアサンが存在していたが、強力な生物が繁殖することを危惧した神が雄を殺して雌のみが存在するようになった。
ベヒーモスはリヴァイアサンと対をなす陸に住むとても巨大な動物で、巨大な腹を持ち無限の食欲を誇るとされている。
この2体の生物は最終的に神に殺されて人間の食料となったとされるのだが(最初から食料にするために神が生み出した)、これらだけでは悪魔というよりも巨大生物である。しかし、中世の時代を境にして両者は次第に悪魔として認識されるようになった。
リヴァイアサンは「嫉妬」を司り蛇のような姿をし、ベヒーモスは「強欲」を司り象のような姿とされている。
神に殺される生物という点が悪魔と解釈される根拠になったと思われるが、これら2体の生物を悪魔と解釈した場合には、神が意図的に悪魔を生み出したということになる。
本来のキリスト教的価値観とはかけ離れた解釈なのだが、リヴァイアサンとベヒーモスが悪魔であるという考え方はカトリックをはじめとしたキリスト教的な考え方とは全く関係が無い。
神が産み出した悪魔という考え方は後世の人間が作り出したものなのだ。
神が産み出した悪魔という考え方は後世の人間が作り出したものなのだ。
だから正しいのか。後世の人間であっても同じ人だ。何かが違う分けではない。
なぜ後世はいけない人なのか。適当に改変下と思い込んでいるだけではないのか。これこそ軽率な嫉妬心である。
なぜ後世の人間の研究は只の妄想なのか。宗教の世界であれば何で妄想になってしまうのか。学問の世界であるのだからどこにしても後世の修正のほうが文化の発展として優秀である。後世から書き加えられても居ない国は発展していない。
理解もできない故に新訂もできない。
新訂は理解の始まりと言うのは正しいことだ。
第一初代ですべてが判っていると言う発想がむしろ低俗だ。それは初代の分だけであり初代の文で無い物に関してはまったく当てはまる事が無いだろう。
このビヒモスというのは地球において重力を意味するものだ。物質性を意味する。
只固まろうとする物質らしい動きがまるで金の亡者・欲の亡者・その他もろもろの亡者そのものであり正に亡者としているのである。
リバイアサンとは海の事であり、地上を削り取る風化の事を言う。その形でよいものまで壊してしまうことから嫉妬というのだ。それは人間の感覚を超越した出来事だ。削れて好く。どんなものも削れて消える。
キリスト教徒はほかの宗教より壊れないことに対する執着が激しい。そのため仏教徒よりも過激に変わらないことを強調する。そのため時間や空間を耐えて硬いままであることを強調する。
道教徒に至っては、既に時間の変化の中での維持を目指しており、変化しながらの流れのなかで真に維持することを行っており神仙掛かっている。
キリスト教徒というのは物質性に非常に重点が置かれた西洋人らしい宗教で、銀色のロッドが保たれることを主とする。物質の世界では重みに呑まれるだらしなさと、物を破壊してしまう不吉な風化を二つのものとし、これから逃れるべきであるとする。これが西洋人的世界観である。むやみに風化に飲まれず、危険から避けて生き、只多数票であることを言い事に適当に生きない、つまり腐敗しない。と言うことである。通常観念か出来事の流れで説明するところ西洋では極端な結果主義であるため、物理的な現象としてそれらを網羅しているのである。
ビヒモスとは物質の固執性。重力性。多数決による腐敗。
リバイアサンとは風化の流れ。何でも壊してしまう。
明らかに避ける程度の配慮が必要だと言う事を示唆している。
キリスト教は進化している。逃げているほどより明瞭に目が見えてきて、より言いたい事が言えるようになる。
だから、改訂はうまく行っている宗教ほど真に迫っている。悪路をたどる宗教の改訂は自爆へと導いて行く袋小路。