歴史上、中国を初めて統一して皇帝となった秦の始皇帝。彼は強大な権力を持っていたために、秦の首都である咸陽(かんよう)に巨大な陵墓を建設した。
これは始皇帝陵と呼ばれ、現在の陝西省(せんせいしょう)西安市の東に位置する驪山(りざん)に存在する。
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また、1974年3月に陵墓から東に1.5kmの地点で井戸を掘っていた住民が偶然兵馬俑抗(へいばようこう)を発見し世界的なニュースとなった。
兵馬俑は1~3号坑の3基から成り立ち、1号坑が発掘された時にとんでもないものが発見された。
東西230m、南北62m、高さ5mの空間に本物の人間や馬と同じサイズの、粘土で出来た8000体もの人形が埋められていた。そして、驚くべきことにこれら人形は全て違う顔をしていた。
この発見は歴史的価値の大きなもので、単に人形の発見などではなく、当時の軍の編成や装備品などを推測する貴重なものとなっているが、現在2号坑と3号坑は未発掘のままである。
兵馬俑発見当初は、始皇帝陵に近い場所で発見されたことから、始皇帝の権力を示すためのものであるとの学説が一般的だったが。近年、中国の調査隊の地質調査の結果、陵墓の地下に東西168m、南北141m、高さ15mの巨大な空間が存在すること、中から平均値の40倍以上の水銀の反応が出たと明らかになった。
これにより、秦の始皇帝が地下宮殿を築こうとしていたことが判明した。
それまで、始皇帝の地下宮殿建造は後の世代に語り継がれた夢物語だと認識され、中国の歴史家である司馬遷(しばせん)の残した「史記」にその存在がほのめかされている程度であった。
また、地下宮殿は破壊や盗掘の被害を受けておらず、当時のままの姿をとどめている可能性が高いようだ。そして、これまでは項羽(こうう)が始皇帝陵を破壊したとされていたが、それは誤りであったと分かった。
この発見は、歴史とはとても信用ならないものだと我々に語りかけている。
では、先述した「史記」に記述された始皇帝陵の真の姿とはどのようなものだったのだろうか。
三泉(三層の地下水脈)を貫くほどに深く掘られた場所に存在し、周囲の地下水が流れ込まないように壁には銅が使われ、百官や女官が並ぶ多くの部屋があり、宝玉などがあたり一面に安置されている。
盗掘者を射殺するために自動で矢を放つ装置が仕掛けられ、水銀を満たした人口の川や海が再現され、天井には太陽や月が描かれている。
部屋の明かりは人魚の脂を使った蝋燭で灯されている。
古代何故歴史学者が何故ここまでの情報を知り得たのか、口伝による言い伝えだったのかはわかっていない。
そして残念なことに、現在この巨大な空間を発掘する目途は全く立っていないという。
もう数十年も前NHKで兵馬俑を取り上げていた。強い衝撃を受けた。是非、この目で確かめたい。