日本でもお馴染の小売店コストコ。
その本場であるアメリカのコストコで、聖書をフィクションのカテゴリーとして販売していたことに対して一部のキリスト教団体の反発を招く形となった。
この騒動の表面だけを見ると聖書がフィクションかどうかの問題といえるが、実際には長い歴史を持つ聖書が現在ではどのような位置づけであるのかを考えさせる出来事である。
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聖書がフィクションであることに対して一部のキリスト教団体から反発があったが、中にはコストコの分類は問題ないとする声も多かった。
これは単なる陳列に関するミスなどの騒動ではなく、現代における聖書の位置づけが表れている興味深い事例である。
重要なのはコストコが聖書をフィクションとして分類したことではなく、その騒動の中で「聖書はフィクションである」との声が多かったことである。
無宗教が圧倒的多数の日本人の視点では聖書はフィクションであるというのは当然の発想のように感じるかもしれない。
しかし、この騒動が起こったのは日本ではなく、聖書の国アメリカなのだ。
アメリカには日本では考えられないくらいに聖書が日常生活の中に浸透している。
ホテルの棚には聖書が置かれ、大統領の就任式では大統領自身が聖書を持ち宣誓をする(近頃は形式的な意味合いが強い)。
国民の中には「自身の子供を学校に通わせない。創世記が真実であることを教育しないからだ。」といった者達がいるくらいだ。
そんな風習があり、聖書を信じる人々が多くいるのも聖書が史実であるという前提が存在しているからに他ならない。
聖書が事実であるからこそ、そこに書かれた規範や思想の体現は正しいことであるといった理由が必要だからだ。
そんなアメリカで騒動となった今回の出来事は、現代の聖書の位置づけが変わってきたことが表れた事例といえるだろう。
人々の中に聖書は史実ではなく、あくまで規範を示す事例がフィクションとして書かれた書物であるといった認識が浸透しつつあるのだ。
それまでは史実と考える人が多く、多くの人々の行動指針の役割を果たしてきた聖書がここにきてその地位を追われようとしているのだ。
しかし、この流れは科学の進んだ現代ではある意味で当然の出来事であり、決して聖書が悪しき書物だとする流れではないことを忘れてはいけない。
ちなみに以前もカトリックの枢機卿が、キリストと現代のテクノロジーとを交えた発言をして話題となったことがある。