日本では成人たちが飲酒するようになると
「飲んで慣れろ、吐いて慣れろ」
とされてきた時代があった。
酒を嗜む中高年の中には自身も若い時代に飲酒して吐いた経験があり、それによって体が酒に慣れたと考える人も少なくない。
このような「飲んで慣れろ」には意外な落とし穴が存在する可能性が指定され始めた。
それは体がアルコールに慣れたのではなく求めるようになってしまった可能性があるという。
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アルコールに強い人のことを言い表す場合に「酔わない人」という抽象的な表現が使用されることが多いが、実際にアルコールに強い人というのは体内に存在するアルコールをアセトアルデヒドに分解するための酵素であるミクロソームエタノール酸化系酵素とアセトアルデヒトを水に分解するための酵素であるアセトアルデヒド脱水素酵素が強く作用する人間のことを表す。
アルコールを摂取することによる頭痛・吐き気・嘔吐などの症状はアセトアルデヒトが引き起こすものであり、アルコールに強い人はアセトアルデヒトによる表面的な影響を受けにくい人ということになるのだ(あくまでアセトアルデヒトの影響を受けていないだけで、アルコールの影響は受けている)。
アルコールを受け付けない人はアセトアルデヒトの分解能力が低いため、より一層影響を受けやすくなる(これは個人差である)。これは遺伝的なものでアルコールをいくら摂取してもアセトアルデヒト脱水素酵素の分泌量は変わらない。
アルコールの影響としては理性や判断力の欠如(大脳に直接作用する)が挙げられる。
アルコールそのものを分解する酵素としてはミクロソームエタノール酸化系酵素が挙げられる。これはアルコール摂取量に比例して若干ながら増加する傾向があり、アセトアルデヒトを分解しやすい体質の人はアルコールによる体感的影響(集中力や判断力の低下)を徐々に受けにくくすることが出来る(これを客観的に見れば酔っていないかのように見える)。
つまり、アルコール分解は慣れ(肝臓に負担をかけて分解酵素を出す)によって表面上ある程度改善されるが、アセトアルデヒトの分解は遺伝的であるため、酒に慣れたというのは元々アセトアルデヒトを分解できる人間がさらにアルコールを分解できるようになっただけなのだ(上記のように表面に症状が出ないだけ)。
つまり、結局アルコールが分解されてアセトアルデヒトになるため、遺伝的な要因に左右される体への負担(アセトアルデヒトによる影響)は変わっていないのだ。
これが酒に慣れた=強くなった→飲む量が増える→アルコール依存症というサイクルを生み出している。
アルコール依存症とは、文字通り脳がアルコール摂取を求めるあまり体に禁断症状が出ることである。原因の多くは常習的な飲酒から始まるとされ、アルコール依存症患者の9割が酒に強いとされている現状を考えると、慣れ=常習的な飲酒=依存という図式が成立してしまう可能性がある(慣れた人間全員が依存症となるわけでは無く、あくまで酒を飲む割合が高い人間が必然的に依存症になりやすくなる)。
慣れとは依存症への入り口になり得るのだ。
新社会人や学生たちの中には今の時代でも上司や先輩から酒に慣れろと言葉をかけられることがあるかもしれない。そのような場面では慣れという言葉の怖さを認識し、自分に最適な選択を心がけるだけでなく、他人に無理な飲酒を勧めることは絶対にしてはいけない。
アルコール依存症は自身で飲酒に対する欲求がコントロール不能になるだけでなく、周囲とのトラブルの原因にもなるだけでなく、肝臓への負担も深刻なものとなる。ネガティブな出来事に対してさらに飲酒を重ねるという悪循環に陥るだけでなく、投薬による治療こそ存在するが根本的な治療は断酒しかありえない。なってしまえば良いことは1つも無いのだ。